きもの座かたおかの歴史と忍者衣装

創業当時のきもの座かたおか。創業当時は先代が(現)伊賀市荒木出身の為、「荒木屋」という店名だった。昭和に入り店名を「片岡呉服店」に変更。平成24年6月15日に「きもの座かたおか」に変更した。中央にいるのが、初代・片岡喜一郎。

初代、片岡喜一郎が日清戦争終結後、勤めていた尼崎の横田商店(北海道方面に木綿の反販売を中心としていた卸売商)の年期奉公を終え、実家である三重県伊賀市上野車坂町(旧三重県阿山郡上野町車坂)にて呉服商を始めた。上野を中心に伊賀一円に販路を求めた。当時は木綿反物類が販売の中心であり、それらの反物は主に農作業着に使われた。創業当時より着物をはじめ木綿作業着の仕立てと販売を同時に続けていた。伊賀地方は盆地で周辺は山林が多く、山に入るための作業着、又農作業をする農家の野良着などが綿布類販売の中心であった。当時の人は家庭の作法として着物・野良着・作業着などの仕立ての技術も身につけていた時代であった。

当店の忍者衣装については、戦後観光協会により忍者屋敷(現・伊賀流忍者博物館)が上野公園内にでき、変わった珍しい衣装として観光客の注文により製作されたものが始まりであった。最初は二代目片岡善三郎が実際の忍者衣装を参考に型を作り製作した。

現在の忍者衣装もその当時の型、仕立て作法により受け継がれてきたものである。

当店の忍者衣装は長年培われて来た農作業着(忍者衣装の原型は野良着)を仕立てる技術と、忍者衣装を再現する技術とが融合して作られてきた。時代の変化と共に当店の忍者衣装も祭り・イベントなどに使用されるものもあり、原型を保ちつつファション性に飛んだ色を使用したものもある。

忍者が実存した時代、忍者は隠密行動が中心であった為、忍者・忍者衣装と言う言葉は使われていなかったのではないか?戦後、その昔実存する忍者が着ていた衣装を忍者衣装と呼ぶ様になったと思われる。

しかし考えた時、本来忍者衣装と言うものがあってはならない物なのではないか?

又、歴史上の名のある忍者自身も自分が忍者だという認識があったのだろうか?


▲その当時の商店街の様子


▲当時のお茶会の模様


▲当時の着物ショー
(モデルのことを「マネキンガール」と呼んでいた。当時流行った、モスリンきもの新作発表会)